悠々日記〜7人家族その日暮らし〜

5人の子育てに奮闘しながら悠々自適に暮らしているベンチャー社長の奮闘物語をゆるく発信します。

結婚して10年が経った。

結婚記念日というのは入籍した日なのか、式を挙げた日なのか、どっちなんだろうかと悩んだりした事はあるだろうか?

まぁどちらでも構わないんだが、我が家では何となく、式を挙げた日が結婚記念日になっている。とは言え、入籍日は妻の誕生日だから必然とも言えるが。(誕生日と結婚記念日を一緒に祝う事など許されないのだ)

 

あの日、自転車女を嫁に貰って早10年。

本当に一言では言い表せないぐらい密度の濃い時間を共に過ごしたなぁ。

 

成功への道②〜理想の人生を生きる為に〜 - 悠々日記〜7人家族古民家暮らし〜

自転車女との出会い編

あの日あの時あの場所で、出会わなければお互い全く違う人生を歩んでいた。

神さまのイタズラとしか思えない。

 

今読み返しても不思議だ。何故あの時、妻は自転車を運ぼうと思ったんだろうか。

余程の天然(馬鹿)じゃない限り、自宅にスペアキーがあるのにわざわざ自転車を運ぶ人はいないはずだ。どうかしてる。突き抜けてるんだ、きっと。

 

だがこの10年、そんな妻に何度も救われた。

 

普通の人ならとっくに愛想をつかされてもおかしくない程、迷惑をかけっぱなしだ。

断っておくが、女性問題ではない。(妻は俺の事を限りなく黒に近いグレーだと罵っているが、ただの勘違いだ。冤罪で黒だと言われても困る。正真正銘のグレーです)

 

この10年をざっと振り返ろう。

衝撃的な出会いから1年経たずしてデキ婚し、アメリカ帰りの新入社員一年生だった俺は晴れて父親になるも速攻で2人目がデキル。

リーマン時代は安月給に深夜残業続きだったが3人目妊娠の一報を受けて独立を決意。

独立後は無収入に借金地獄が続く。その後、義理のご両親から頂いたマンションを買い戻して貰って売却資金を持って名古屋に移住。

名古屋引越し後に4人目妊娠が発覚(荷造りしながら子作りしてましたと自虐ネタを披露するもウケず)と同時に仕事仲間の裏切りが発覚。

キッチリ制裁を与えて別の仲間と会社を興すもマンションのお金は事業資金に溶かす。

義理の母上の癌が発覚。

俺、ストレスで倒れる。(リーキーガット症候群という免疫不全の病気で小腸に穴が空く病気だ)

体重が2ヶ月で15kg激減し、闘病しながら仕事をするも一向に改善せず、そのまま4人目が出産。

妻は4人の育児をしながら俺の介護までする羽目に。

一年かかって(妻の献身的な食事療法のおかげで)体調が50%程度にまで回復し、仕事に復帰。

新規事業として飲料水業界に参入を決意。

商談の為に上京する当日早朝に一緒に会社を興した仲間の自宅にガサが入る。

仲間、大麻所持で逮捕。

新規事業契約締結後、面会に行く。からの保釈。

その後、義母が他界。

程なくして5人目の妊娠が発覚。

新規事業の契約元が別会社に事業売却するも、アメリカ本社と契約破棄の危機に。俺が別会社を引き継ぎ事業を継続する事に。

5人目が出産。

イルミネーション事業を任せていた社員が離散、大麻所持の仲間とも決別。

田舎に移住を決意。古民家を改修し、豊田市は足助の山奥に移住。

新規事業で引き継いだ会社に問題がある事が発覚した(資金調達ができない)ため、新しく別会社を設立。

移住先の古民家が事故物件だった事が発覚。

アメリカ本社が経営難に陥る。発注した商品が届かない事態に。

古民家裁判を提訴。

新会社で資金調達に成功。

兼ねてより交渉していた製造権を取得。

再び名古屋に移住。

国産モデル開発中←今ココ

 

 

細かいところは端折ったつもりだけど、それでも色々あり過ぎた。まさかの連続だった。

こんな事態を一番側で支えてくれて、時には弱気になる俺を励ましてくれた妻には、

感謝しかない。

本当に感謝の言葉に尽きる。果てしない苦労を共にしてきた妻には何でも打ち明けてきたし、悩みも相談してきた。一番の理解者であり、応援者でもあり、戦友でもある。5人の子育てはみんなが想像を絶する程に過酷なのだよ。無論、自分が家にいる時は家事も育児も手伝うが、仕事がら出張も多く(なんせ新会社は東京なのだ)、一人で5人の相手をしなければならない日も多い。

俺の両親は離婚していて、母親は祖母の介護で田舎に帰っており、親父は再婚相手と一緒に住んでいる。妻のお父さんは東京在住でお母さんは他界してしまった。周囲に頼れる人は俺の兄妹か友達だけだ。わがままなんて言えない。

 

自分の事業だって資金難の連続だ。新会社には自己資金を突っ込んでるにも関わらず給与はとってないし、名古屋の会社も売り上げが安定せずに毎年資金繰りに頭を悩ませている。資金繰りに困ってるときは自分の給与を未払いにする事も少なくない。個人と会社の借金を合わせると4000万円ぐらいだろうか。何億円も借金している先輩経営者から比べればなんて事はない数字だが、半分ぐらいは個人の借金だ。改修資金も入ってるが。

 

それでも、それでも妻は笑って応援してくれる。

「万が一失敗しても、絶対なんとかなるよ。」

 

そう言って背中を押してくれる。やはり、突き抜けてるな。楽天家で、ポジティブで、天然な妻に何度助けられたことか。

見返したい相手、恩返ししたい相手、安心させたい相手、沢山いるが、妻と子供たちに俺が目指してる景色を見せてやりたいと強く想っている。無論、俺自身も見てみたい。ずっと思い描いて、夢に見てきた景色を。

 

 

間も無く、この10年の集大成を見せられる時が訪れるかもしれない。まだまだ、不安要素もいくつもある。

だが、必ず俺はやり遂げるだろう。

今までと同じく、諦めさえしなければ。

 

 

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写真は10周年の記念日に食事したレストラン「マルコンソール」のもの。兄妹家族に子供たちを預けて数年ぶりに2人きりでディナーに行く事ができた。喜ぶ顔が見れて、こちらも嬉しくなる。(ついつい飲み過ぎた)

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いつも本当にありがとう。

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最後は隠れ家バーで妻を口説いた。

 

〜悠々自適に生きる〜 

成功への道⑦〜理想の人生を生きる為に〜

それがチャンスだとは誰も気付かない

自分がやりたい仕事をする為に、フリーランスから脱却する為には資本力が必要だと今更気付いた俺はどうすればこのジリ貧生活から脱却できるのだろうかと日々悶々と考えていた。

勿論フリーランスで稼いでいる人は沢山いるだろうし、その生活を否定している訳ではない。

ただ俺の場合、最速でハットトリックを決めて子供が3人に増え、妻は育児と家事に追われる日々なので当然専業主婦(むしろ積極的に俺も手伝わないと家が回らない)状態で収入が不安定なフリーランスの仕事ではこの先到底養っていけない事が明白だっただけなのだ。

 

ここで言う「成功」というのは単に世間一般でいう「大金持ち」になる事ではない。「自分の理想の人生を生きる」ことを一言で「成功」と位置付けた。そして勿論、自分自身「成功」している訳でも「大金持ち」な訳でもない。今まで歩んで来た道、これから進む目指すべき「成功」への道を自分の為に記録する事にしただけだ。そんな(今はまだ誰も知らない)ベンチャー社長の物語シリーズである。

物語シリーズ①はこちら
成功への道①
成功への道①〜理想の人生を生きる為に〜 - 悠々日記〜7人家族古民家暮らし〜

前回の物語シリーズはこちら
成功への道⑥

成功への道⑥〜理想の人生を生きる為に〜 - 悠々日記〜7人家族古民家暮らし〜

 

実はリフォーム事業を始める前から自分(と我が家)の窮地を周りに相談していた甲斐もあっていくつか単発の仕事を頂いていた。

その1つがクリスマスディスプレイの仕事だ。

所謂デザイナーの仕事をしているので、インテリアや照明以外のデザインもできるでしょ?みたいなノリで仕事を頂いたのだ。

簡単に言うとホテルロビーのクリスマスツリーの飾り付けだが、リフォームの雑工事までこなす俺からすれば楽勝だ。

ただやった事もないので仕入れ先や装飾品の市場調査から始めなければならない。

google楽天等、先ずはネットで情報収集するもクソみたいな装飾品しかない。

次に浅草橋の問屋さんを物色しに行くも昔から殆どデザインも変わってなくネットで売られている様な物しかない。だが、色々と調べて輸入品を扱っている業者や品揃えの良い問屋さんを見つけた。だが、全く予算と合わない。

仕方ない、予算内で利益を出す為に普通の装飾品を使うか…

 

とは、ならない。

こんな俺に頼んでくれた方に喜んで貰いたい、ホテルの宿泊客やスタッフに喜んで貰える様なクリスマスツリーにしたい。

どうせなら自分が楽しんで、やるからにはやりきりたい。

そういう性分なのだ。

 

薄利になった分、クリスマスツリーはとても好評で、来年も仕事を貰える事になった。さらに、イルミネーションのLED化も検討しているので見積提案して欲しいとの事。

喜んで!

 

という訳で後日、LEDイルミネーションの見積提案をすると責任者の方が驚いて電話してきた。

「この金額は仕入額じゃないよね?ちゃんと利益取ってる?」

「一応、薄利ですが。他社より安くないと提案の意味がないと思いまして。」

と答えると、どことは言えないが、他社の半額以下だと言われた。どうやらこの業界はニッチなので、価格競争があまりないらしい。

確かに浅草橋のイルミネーションも高いもんなぁと思っていた。俺は色々調べて業者専用のネットで仕入れるサイトから金額設定していたので、圧倒的に安かったのだ。

おかげで提案が通り、施工まで対応できないかと依頼を受け、施工部隊編成を要請した名古屋の旧友と一緒にLED化を検討していたホテルに向かった。

忘れもしない。初めてホテルのイルミネーションをする事になった初島へ。

 

本部の人と一緒に現地入りすると、現場の担当者が迎えてくれた。こちらの年齢の低さに少し違和感を持たれた印象を受けたが気にしない。話を聞くとその担当者が、(一人で!)このホテルの広大な庭のイルミネーションの取付と管理をしているそうだ。

驚愕した。

 

昨年の施工写真を見せて貰ったが、とても一人で施工した様には見えない。約1ヶ月かかるそうな。どうやら、その方もプライドを持って取り組んでいるみたいだ。だからLED化の申請を本部に出したのだ。

 

これは本気で取り組まないとヤバイ。:(;゙゚'ω゚'):

 

フェリーに乗って初島に来たので、半ば観光気分で自分が来ている事に気が付いた。俺たちはプロの業者としてここに来ている。当然担当の方より遥かに高いクオリティが求められているのだ。

 

やったこと無いんですけどねっ!

 

甘い考えが吹き飛び、ただイルミネーションを取り付けるだけじゃダメだと思った俺は色々なアイデアを出した。そのうち、

 

「この水景の真ん中の島にイルミネーションのドームを作るのは如何でしょうか?」

 

なんて提案をしていた。

「きっと水景に映り込んで、まるで惑星の様に綺麗に見えると思いますよ。」

 

我ながら驚く程に冗舌だ。

屋外なので台風対策が必要になる為に強度の問題と、島なので重機がない為に施工の問題、更に予算の問題があると協議上判明した。

 

「ですが、検討する価値はあります。」

 

半ば押し切る形で現地を後にした。

やるしかない。この案しかないと思っていた。

 

できるかできないかではない。

やるかやらないか、なのだ。

 

早速、東京に戻りドーム制作について調査を開始した。ドームといえば通称「フラードーム」が一般的で最適な事が分かった。三角形構造のアレだ。

 

 

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こんなにでかいドームも建設可能。

 

だが、今からフレームを特注する時間も予算もない。その後数日かけて辿り着いたのが「スタードーム」だった。施工事例としては竹で作った小さいドームしかなかったが、部材を調達できれば施工できる筈だ。

 

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だが、低予算かつ納期まで殆ど時間がなく対応して貰える業者さんは見つからなかった。

本来は金物で製作する必要があるのだが、こうなったらホームセンターで手に入る部材を使うしかないと探し回った。

強度があり、耐食性にも優れて、しなる部材。

塩ビはどうだろうと探したが、強度と寸法が合う部材は当然扱ってない。

名古屋の施工部隊にも材料探しを手伝って貰っていた時に知り合いのものづくり工場をされている先輩から救いの手が差し伸べられたと連絡を受けた。すぐに名古屋に行って打ち合わせし、納期はギリギリだが、フラットバーと特殊な透明な塩ビパイプで施工しようという事になった。

スタードームの図面と3Dパースを持参し、打ち合わせした時に「構造的に六角形の方が良いのだけど、五角形じゃないとダメですか?」

と聞かれ

 

「ダメです。五角形じゃないとスタードームになりませんので。」

 

とドヤ顔で即答した。

なんて生意気な野郎なんだと思われたに違いない。だが、こだわった甲斐もあり想像通りのスタードームを完成する事ができた。

 

 

施工時は10個ぐらい問題が発生したが、施工まで付いて来て頂いた製作担当者と施工部隊チームの対応力のおかげで完成まで辿り着いた。

施工メンバーの誰もが完成できないと心配していたらしいが、俺は微塵も思っていなかった。

 

単純にやるしかない。

そんな心境だったので心配や不安等感じている暇がなかったのだと思う。

 

そしてまたしても、このスタードームを製作した事で殆ど利益は出なかった。

だが、その年のホテル全施設で配布される会報誌の表紙をスタードームが飾る事になり、そのおかげで他の施設のイルミネーションの仕事も任せて貰える様になったのだ。

こうしてイルミネーション事業が始まった。

 

多くの駆け出しのクリエイターやデザイナーは、自分の作品をつくる為に寝る時間を削り、利益度外視でより良い作品創りを心掛けていると思うし、それと同じ事なんだが、それができるか否か。仕事がなく、収入も殆どなく、借金してまで挑んだ仕事でも、お客様に喜んで頂ける作品にする為にたまたま利益が出なくたって、また次の機会を貰えたらその時は少し利益が出る様に工夫しようと思えるかどうか。

こんなやり方はプロの仕事とはいえないと思う人もいるかもしれない。

だが、独立したて、駆け出しの新人はそれぐらいやらないと仕事は貰えないと思うし、そもそも新人なのだからセミプロなのだ。

Give and Give and Give

しかないと思う。

誰もやりたがらない事、やらない事、

そこにチャンスが隠れてる。

だが、殆どの人はそれがチャンスだとは気付かないんだ。

 

人生は決断の連続だ - 悠々日記〜7人家族古民家暮らし〜

周りに困っている人や誰かに頼まれた事、友人の会社や事業にとってプラスになりそうな事は、どんなに自分の事業が上手くいっていなくても、どんなに忙しくても、積極的に、全力で助けてあげなければならないし、取り組まなければならない。

それが成功の秘訣なんじゃないかと最近思い始めた。自分が求めている事や困っている事に誰かの助けを求めるよりも、誰かが困っている事や求めているものを自分ができる範囲で積極的にお手伝いした方が自分も動き易いし、最終的に返ってくる事が多い。

 

〜悠々自適に生きる〜

成功への道⑥〜理想の人生を生きる為に〜

 生きる為に何でもやる覚悟

周囲の制止も聞かず無計画に独立した挙句、プロジェクトが中止になり、新たな案件も取る事ができず、どん底の状況で3人目が産まれた俺は途方に暮れていた。

自分の仕事(プレゼン資料作成の下請け等)をこなしながら知り合いの設計事務所のバイトを掛け持ちしていたが、明らかに収入が足りない。

 どうすればこのどうしようもない状況を変えられるのだろうか。毎日オムツを替えながら自問自答する日々が続く。

 

俺はオムツを替えてる場合じゃないんだ!と。

 

ここで言う「成功」というのは単に世間一般でいう「大金持ち」になる事ではない。「自分の理想の人生を生きる」ことを一言で「成功」と位置付けた。そして勿論、自分自身「成功」している訳でも「大金持ち」な訳でもない。今まで歩んで来た道、これから進む目指すべき「成功」への道を自分の為に記録する事にしただけだ。そんな(今はまだ誰も知らない)ベンチャー社長の物語シリーズである。

 

物語シリーズ①はこちら
成功への道①
成功への道①〜理想の人生を生きる為に〜 - 悠々日記〜7人家族古民家暮らし〜

前回の物語シリーズはこちら
成功への道⑤

成功への道⑤〜理想の人生を生きる為に〜 - 悠々日記〜7人家族古民家暮らし〜

 

独身時代には味わった事のない重責と焦燥感。

俺は三児の父親なのだ。家族を養わなければならないという最低限かつ最優先の責務がある。

だが、一人で悩んでいても答えはでない。

 何ができるかわからない、設計の営業なんて特殊過ぎて誰もよく知らないし、自分でもどうすれば仕事が取れるのかわからなかった。

 

動かなければ何も変わらない。
自ら変える為に行動しなければ。

よし、色んな人に悩みを相談しよう!

そして何でも構わないから仕事を振ってもらおう!

 

そう思って色んな人に昼夜問わず相談しまくった。自分一人で何とかできないなら周りに助けを求めるしかない。そんな事も分からず一人で悩んでいたのだ。そして、大事なのは直接会いに行く事だと気付いた。(書いていて今の自分がお世話になった方々に顔を出せていない事に気付いて反省している)

顔を合わせる事、同じ時間と空間を共有する事は大袈裟ではなく、電話やメールでは伝わらないサムシングがあると思う。

格好付けてる場合でも見栄を張ってる場合でもないのだ。恥を忍んで周りに相談しまくった。

 

独立したんですけど、全然上手くいってないんです。しかも三人目産まれて超大変なんですって。

 

 だからと言ってすぐにどうにかなるもんでもないし、すぐ仕事を振って貰える訳じゃない。

でも、新しい人を紹介して貰ったり、気にかけてくれる人が増えた。

そんなタイミングで前から気にかけてくれていた前の会社の上司と独立に反対していた親父から(見るに見兼ねて)紹介して貰い、二つの案件を頂いた。

 

一つは大阪マリオット都ホテルの照明デザイン設計。この案件は前の会社を辞める前に実施図面を自分もまとめた事がある元々担当だった案件だ。アメリカの照明デザインのボスであるバブ・シャンカー氏に依頼した所、予算が合わないので、俺が間に調整役で入って欲しいとの事。

 

勿論ですっ‼️

 

マジで電話で叫んだ記憶がある。

有難い。阿倍野ハルカスの上層階にオープンした複合ホテルで世間からも注目されていた。施主は近鉄だし、JVの設計会社は日本設計だ。辞めて改めて思い知る、前の会社の有り難みと凄さ。しかも自分の担当案件をかつての照明デザインのボスと一緒に携われるなんて、この上なく嬉しかった。

 

もう一つは表参道にオープンしたショップの内装デザイン(勿論、照明デザインも含む)。独立して初めて一からデザインした案件なので思い入れも強い。だが、残念ながら2年前に閉店となってしまった。

 

この2つの案件に集中する為、設計事務所のバイトは辞めた。元々応援してくれていたので、喜んで背中を押してくれたのが本当に有難い。

 

 

それでも食べていけないのがこの世界。

 

フリーランスのデザイナーや少人数のアトリエ系設計事務所で生計を立てている人たちは本当に凄いと思うし尊敬する。自分の作品をつくる(設計する)事がどれほど大変な事か(それも継続的に)。

大口のクライアントか仕事を振って貰えるパートナーがいなければ到底やっていけない。

ましてや、俺の様な妻子持ちには非常に過酷だ。最低限必要な生活費の額が違うし、家にいたら育児の手伝いをしなければならないからな。

 

一人で事業を継続していくには限界があるけど、人を雇えばその分経費がかかる。

多くのフリーランスやデザイン事務所はシェアオフィスやインターンを有効活用してなんとか案件をこなしているケースが多い。

 

俺の場合はそんな状況ですらなかったので、出来る限り作業は自分でこなし、自宅作業を続けていた。上の2つの案件を無事に完了して報酬を頂いても次が続かなければ同じ状況に陥ってしまう。

 

同時並行で動いていた海外案件は中断してしまった。(海外案件、特に中国案件ではよくある事だが、個人事務所にはキツイ)

提案資料作成の下請業務だけでは意味がないのだ。焼け石に水というヤツである。

 

どうせ下請ばかりでやりたい仕事(自分の作品作りやデザイン)ができないならば、やれる事は何でもやるしかないと覚悟を決めた。

そして、以前相談した方から自分が保有しているアパート物件のリフォームをしないかと持ちかけられ引き受ける事にしたのが、リフォーム事業の始まりだ。あわよくばR不動産の様に俺がリノベして不動産価値を上げられたら自分の実績や経験に繋がるとも思ったからだ。

有難い事にその方は都内に多数の不動産を所有して資産運用している大富豪(本人曰く自分は小金持ちらしいが)だったので、提案次第で自分のデザインリノベが採用されるかもしれないと淡い期待を抱いていた。

 

甘い。完全に甘く見ていた。

自分の資産を運用している様な方は非常にお金に厳しいのだ。だからお金持ちになれるんだと思う。

前のリフォーム会社の担当者を紹介して貰い、色々とアドバイスを頂いたが、金額とクオリティにはどのお施主様よりも厳しいから頑張ってねと言われた。まさにその通り。

リノベの提案は一切採用されなかった。

むしろ予算内に収める為に簡単な雑工事や塗装、電気工事は自分でこなす必要があったぐらいだ。

設計の仕事では、現場で鹿島や大成、清水等のスーパーゼネコンきんでんの現場所長と打ち合わせをしているというのに、普段は作業着を着てアパートのリフォームをしている。このギャップには自分でも笑えてくるものがあった。

それでもこの時の経験は自分の人生の中で非常に大きな礎になったと思う。

無収入の月がないだけでどれほど救われる事か。サラリーマンの頃に毎月決まった給料が貰えて、少ないとはいえ貰えていたボーナスの有り難みをこの時期程、噛み締めた事はないかもしれない。

仕事を貰えるという事の有難さ。

その事に感謝し、誠心誠意取り組みたいと思える様になったのはとても大事な事だと思うし、自分自身の中でも大きな変化だった。

 

だが、生活の為にはリフォーム事業は必須ではあるが、自分がやりたい仕事じゃないのは間違いない。

 

感謝はしつつも、このままではいけないと感じていた。一見矛盾している様に見えるが、とても大事な事なのだ。

努力の方向性や方法論の様なもので、やっている事は間違いではなくても、正しい結果に繋がるか、自分が望む成果が得られるかは別問題だから。

 

設計業務にしろリフォーム事業にしろ、人を雇える様にならなければ個人事業(フリーランス)から脱却できない。

 

以前その事について書いたエントリーがこちら↓

フリーランスが一番楽。だが、いずれ限界が訪れる。 - 悠々日記〜7人家族古民家暮らし〜

フリーランスの戦闘力が上がらないのではない。仕事のスキルだけでなく、営業、人脈づくり、経理や契約の知識が必要になるので、ある一定までは戦闘力も経験値も上がるはずです。だが、外注さんの立場に甘んじた時、停滞が始まる。焦燥感すら覚える事もありました。

正に目の前の安い自由と手取りに釣られている状態。これじゃぁ何処かの組織に属していた方がマシなんじゃないか、と自分も思った事もあります。終わりの始まりを肌で感じ始める。

だからと言ってクライアントを獲得して期待に応え続けるとなると、発注する側も受注する側もフリーランスでは限界が来る。

それが私が思う所のフリーランスの限界です。

 

まだブログをやり始めた頃なので、「私」とか言ってるwキャラ違い過ぎるだろwww

すいません。当時はちょっと頭良さげに見られたいと思ってました。あと、優しげなキャラ設定にしてました。

 

でも、やっぱ無理でした。

 

慣れない表現をすると疲れるという事が分かっただけでしたね。

話が逸れましたが、そんなフリーランスの状況を脱却する為には資金力と仕事の案件を掴むしかないと肌で感じ、それまでは一人で走り続けるしかないなと確信したのであります。

 

〜悠々自適に生きる〜

古民家裁判とその後

大丈夫、何とかやってます。

 

前回のエントリーから約4ヶ月も経ってしまった。目まぐるしく状況が変わり、目の前の問題や状況を解決するのに精一杯で、仕事は忙しくなるし、とてもじゃないが更新する時間がなくて、というか更新する気になれなくて時間だけが過ぎてしまった。

別に沢山の読者がいる訳でも心配するメッセージを頂いた訳じゃありませんが、一応申し伝えておきます。

 

大丈夫です。ちゃんと生きてます。むしろ調子良いです‼️

 

前回のエントリーはこちら↓

空き家バンクを利用して田舎に移住したら事故物件だった件 - 悠々日記〜7人家族古民家暮らし〜

 

この話は、豊田市の空き家バンク制度を利用して築200年の古民家を改装し、田舎に移住した7人家族+猫2匹の現在進行系リアルストーリーである。

 病気で亡くなったと聞いていた前住人が実は自殺だった事が移住後に発覚したのだ。

 

さて、裁判の件は素人から見て完璧な内容の訴状を弁護士に作成して頂き、少々時間はかかりましたが、先日無事に提訴しました。

今回のタイトル通り、ズバリ「古民家裁判」と命名しました!(自分の中で)

訴状通知後に被告人の1人から泣きのメールが送られてきましたが、勿論被告と原告が個別にお会いするのはできませんのでお断りしました。というか事前に提訴する旨は説明していたのに何をトボけた事を言っているんだろうか。

 

引越先と日付も無事に決まり、来る4月4日に名古屋市内に戻る事になります。一年前の4月4日に移住してきたので、ちょうど丸1年の古民家暮らしでした。

発覚したのが昨年の6月なので、色鮮やかな思い出は最初の3ヶ月程度しかない。それでも地元の人たちや学校の先生方は素晴らしい人ばかりで、とても良くしてくださり、交流を深める事ができたと思う。

本件を打ち明けると皆心配してくれて、申し訳ない、地元の責任だと言われる方も複数いた。この地域に対する悪いイメージは全くない。悪いのは当事者だけだ。

 

一番心苦しかったのは、毎日楽しく学校に行ってる息子達に打ち明ける事だった。

ギリギリまで寂しい想いをさせたくなくて、学校の先生とも相談し、この連休初日まで話をするのを待っていた。

朝一、何気ない会話から機を見て話を切り出す。事前に妻と相談して、包み隠さず話した方が理解してくれるだろうと決めていたので、ありのままを話した。

先ず情緒豊かな長男が涙を流した。彼にとっては2年連続の引越しでようやく仲良くなった友達とまたサヨナラする事になるのだから、当たり前だ。その姿を次男が見て、それまで我慢していた涙が次男の目から溢れた。

 

俺はこの姿を目に焼き付けておかねばならない。

 

そう思って対面に座っていた。今回のような事態を招いたのは大人である自分の責任でもあるからだ。だが、いてもたってもいられず2人の肩を抱きに机を回り込んだ。

 

「ゴメンなぁ。悲しいよな。悔しいよな。

父ちゃんも同じ気持ちだよ。」

 

そう息子達に伝えた。俺まで泣きそうになる。

だが、ありのままを話した事で、息子達は気丈にも現状を理解してくれて、引越しは悲しいけど、仕方ない事だと前向きに捉えてくれた。

その日のうちに一緒に引越先を見に行って自分達の部屋になる予定の部屋を見て、息子達も楽しみだと言ってくれた。

 

それだけで、心が救われる。

 

子供達にも学校にも地元にも話をして、引越先も引越業者も引越日も決まった。

あとはキッチリ、カタを付けるだけだ。

 

また気が向いた時に古民家裁判に関する続報を書こうと思う。

それと仕事の事や成功への道シリーズも更新していきたいと思います。

 

 

空き家バンクを利用して田舎に移住したら事故物件だった件

さて、豊田市から想定内の回答書も頂いた事だし、そろそろ本案件についてエントリーしておく事にする。

この話は、豊田市の空き家バンク制度を利用して築200年の古民家を改装し、田舎に移住した7人家族+猫2匹の現在進行系リアルストーリーである。

 

病気で亡くなったと聞いていた前住人が実は自殺だった事が移住後に発覚したのだ。地元の方々との何気ない交流から病死ではない事に妻が勘付いて、管理人に問いただした所、自白した。本当の事を言うと誰にも住んで貰えないと思って言えなかったんだと。

 

ふざけるなよ?

 こっちは毎週末、足を運んで自分達で解体して、約1000万円かけて改修したんだぞ?

 どんな思いで移住を決めたと思ってるんだ。

 悔しくて悲しくて、今まで大切にしてきた思いや期待が全て吹き飛んだ気がした。

 

古民家改修中のエントリー↓

古民家改修 解体編 - 悠々日記〜7人家族古民家暮らし〜

 古民家改修 解体編その2 - 悠々日記〜7人家族古民家暮らし〜

古民家改修 解体編その3 - 悠々日記〜7人家族古民家暮らし〜

古民家改修 解体編その4 - 悠々日記〜7人家族古民家暮らし〜

古民家改修 工事編 - 悠々日記〜7人家族古民家暮らし〜 

読み返すとマジで泣けてくる。

 

更に管理人と話し合いを続けていると衝撃の事実が発覚した。なんと前々住人も自殺で亡くなっていたのだ。

 

アウト。完全にアウト。

 

詳細は割愛させて頂くが、そんな物件をわざわざ嘘を付いて説明して勧める、その神経が理解できない。しかも自殺したのは他でもない管理人の娘婿だというのに。

 

翌日、大家にも事実確認をしに行ったが、何故か被害者面だ。自分は全て管理人に任せていたから責任はない等と言っている。

余りに無恥。賃貸契約上、貸主である大家に説明責任があるのだから。管理人に一任していると言っても契約前に顔合わせや賃貸条件等の話し合いをしたわけだからその時に説明するべきだ。

 

そして豊田市の対応も全く理解できない。

豊田市へ一番最初に事実関係を確認する為に話し合いをした所、前住人が自殺していた事を知っていた事を認めたのだ。しかし、空き家バンク登録から紹介までの経緯を調査報告依頼をして、後日報告を受けた時点では亡くなった事は知っていたが、自殺だった事は知らなかったと供述を変えた。異動になっていた担当者にも同席して頂いたが、自殺の事実を知ったのは地域説明会の後に管理人が相談に来た時点だと話した。そして管理人に説明する様に促したから責任はない等と言うのだ。

賃貸契約の条件等の説明時に大家、管理人、豊田市職員、そして仲介業者として地元不動産会社、前住人(管理人の娘)同席のもと、顔合わせと話し合いを行ったが、自殺に関する説明は一切なかった。全員が知っていたにも関わらずだ。本件は重要事項説明義務違反にあたるが、賃貸契約上、責任があるのは貸主と仲介業者のみになってしまう。しかし、俺たち家族は豊田市の空き家バンク制度を利用して古民家を探し、移住を決めたのだ。

豊田市側にも登録時等において重要事項の確認、説明責任があるとし、弁護士を立てて提訴する事になった。

先日弁護士を通して豊田市に内容通知書を通達し、その回答書が届いた。豊田市からの回答は想定通り認められないという内容だったので、今月末に提訴する事になる。

今後はこの裁判についても書いていきたいと思う。人生初の裁判は思いも寄らない形で経験する事になったが、前を向いて進めていきたい。

 

前に自殺だった事が発覚した時に書いた記事↓

人生は決断の連続だ - 悠々日記〜7人家族古民家暮らし〜

人生は決断の連続で、時に間違った選択をする事や想像もできない様な事態が起きる事もある。そんな時は開き直れば良いんじゃないだろうか。このエントリーは未来の自分を励ます為に書いた。今読んでも染みるが、また気が向いた時に読み返そうと思う。

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〜悠々自適に生きる〜

御来光と豚のいびき〜3日目〜

8才の息子と富士山に登ってきた。我が家は7人家族なので、息子との初めての二人旅はお互いとても貴重な経験で、素晴らしい思い出になった。

 

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息子と富士山に登ってきた〜1日目〜 - 悠々日記〜7人家族古民家暮らし〜

 

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 息子と富士山に登ってきた〜2日目〜 - 悠々日記〜7人家族古民家暮らし〜

 

 

富士山を登り切った余韻に浸りながら、夕陽も星空も見ずに息子の寝顔だけを見ながら寝てしまった俺は、突然の目覚まし音で目が覚めた。

この頂上富士館は全員4時起床、5時チェックアウトが規則になっている。(鬼長官が宿主なんだと思う)

 

誰かが四時前に目覚ましをかけていたんだろう。自分は携帯の充電が残り僅かしかなかったので、御来光撮影の為に電源を切っていた。

目覚ましもかけていなかったので、このまま俺も起きるか布団の中で自問自答していた。

周りはガサガサ荷物を整理している音がするなと思ったら、すぐ隣から物凄い音が発生している事に気がついた。

 

「ぐごぉがぉぉおおおおお…ぐごぁぁがぉぉおおおおおお」

 

なんだコレは⁉️

まさかコレはいびきなのか⁉️

聞いた事もないような爆音が部屋中に響いている。俺の横から。

既に完全に目が覚めて意識もはっきりしている。これでは到底眠れない。

起きるしかないな。そう思ってザックの中の腕時計を見た瞬間、自分の目を疑った。

 

(おぃ。まだ2時過ぎじゃないか。)

 

さっきの目覚ましは何の為のセットだったんだ。3つぐらい隣の人が赤いヘッドライトをつけながら荷物を整理している。

 

(お前は何故こんな時間に荷物を整理しているんだ?お前か⁉️目覚ましをかけた奴は。)

 

隣から止むことのない爆音のいびきを聞きながらフリーズした。トイレに行こう。そしてついでに外に出られないか見てこようと思い立ち、すぐにヘッドライトを片手にトイレに向かった。隣には巨漢が横たわっている。

 

そういえば若い頃に出入りしていた車屋の社長が100kgオーバーの巨漢で同じ様に想像を絶するいびきをかいていたな。寝る前にあなたを見た瞬間によぎった悪い予感はこの事だったのかと、トイレに向かいながら思っていた。

 

用を済ませて玄関に向かったが、施錠されていて出られない。というか外からシャッターが降ろされていて、外の様子すらわからない状態だ。夜間外出禁止が規則なのは知っていたが、どちらかといえば今は早朝だ。見逃した星空を見て朝を待ちたいと考えていたが、鬼長官に阻まれてしまった。完全に閉じ込められている。

 

(くそっ。あそこに戻るしかないのか。)

 

もしかしたらいびきは一時的なもので今は静かになっているかもしれない。

そんな甘い期待は布団に戻ってきて吹き飛んだ。仕方なく布団に入るが、眠れる訳もない。

布団を頭まで被ってもあまり効果はない。それぐらいデカイのだ。

しかもこの布団のサイズが小さい。セミシングルとでも言おうか。普通のシングルサイズよりも細いのだ。

 

まるでセミダブルで隣の巨漢と一緒に寝ている様な距離感だ。しかもこっち向いて寝てやがる。

 

 まるで地獄。

大袈裟に聞こえるかもしれないが、その時の俺は実際にそう思っていた。

眠れない時間は途方もなく長く感じる。

時折、豚のいびきにも変化が生じる。

 

「ぐごぉがぉぉおおおおお…ぐがっ………………」

 

呼吸が止まるのだ。

余計な心配をしてしまう程、止まっている事もある。そして、遂に

 

「ぐごぉがぉぉおおおお…ぐごぁっ………すー……すー……」

 

呼吸が通った‼️

おぉぉ‼️マジか‼️おめでとうっ!

と心の中で一人歓喜していたが、数分後には安定の爆音のいびきが復活していた。

いびきの研究をしていると、厨房の辺りから作業音がしてきた。時は3時。朝食の準備をしているに違いない。事情を説明をして玄関を開けてもらおうと思い、ヘッドライト片手に食堂に向かった。

だが、厨房もシャッターが降ろされていて、従業員と接触できない。鬼長官め、徹底して隔離してやがる。

諦めて布団に戻り、朝を待つ事にした。

 

 

奇跡の御来光

気がつくと4時になり部屋の電気が点灯された。あれから少しは寝れたみたいだ。

息子を起こし、荷物をまとめて朝食を済ませる。出発の準備をしていると従業員から外は小雨が降っていると伝えられた。

 

(マジか。もしかして御来光は見られないのか。)

 

そんな不安がよぎりながら、レインコートを着て、ザックにレインカバーを取り付ける。

準備が整い、外の様子が見たくて表に出ようとすると、外には開店を待っている登山者で溢れており、一度外に出ると中には戻れないと言われた。外にはびしょ濡れの登山者がいた。小雨どころではなさそうだ。

 

「御来光は難しいですか?」

 

と従業員に尋ねると

 

「まぁ無理でしょうね。」

 

と、素っ気なく返された。

御来光も見れないのに雨の中外に出てもどうしようもないなと思い、中で待機する事に。

息子には「残念だけど、雨が降ってるから御来光は見られないみたい」と伝えると「雨なら仕方ないよね」と答えた。

 

(確かにそうなんだが、折角頑張って頂上まで登った息子に御来光を見せてやりたかった)

 

俺の方が残念な気持ちで一杯だ。

日の出は5時頃。そして5時に開店となり、外の登山者が雪崩れ込んできた。宿泊客は席を譲らなければならない。御来光が見られないなら、無理やり5時にチェックアウトさせなくても良いじゃないかと思ったが、人混みが凄かったので、息子と一旦外に出た。結構な雨だ。霧がかかっていて、風も強い。下山するには早過ぎるし、何より危なそうだ。

 

外は寒いので、再び中に戻り売店を見てみる事に。特に何もない。正直ろくな品揃えではない。山頂記念にと、日の丸の旗を1つ購入した。日付をスタンプしてくれるそうだ。

その時、無愛想な従業員が

 

「あっ、もしかしたら御来光見れるかもしれませんよ?」

 

と話しかけてきた。外に目を向けると霧が晴れて空が急に明るくなり始めている。お礼を言って息子と急いで外に出た。

 

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それまでの天気が嘘の様に、御来光を拝む事ができた。

 

息子の肩を抱きながら、感動して泣いた。

余りの美しさに。そして、諦めていたから余計に嬉しさが込み上げてきた。ここまで頑張って辿り着いた息子にこの景色を見せる事ができて、息子とこの景色を一緒に見る事ができて、感謝の気持ちで一杯になった。

 

(ありがとうございます。)

 

自然と心の中で呟いていた。

 

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逆光なのは分かっていたが、記念撮影をした。

 

外は寒く、息子は一旦中に戻るというので、山小屋まで送って、再び一人で御来光を拝みに行った。刻々と変わっていく景色に感動しながら、本当に来て良かったと実感した。

これからも頑張ろうと思えた。

 

周囲ではガイドの人等が、こんな事は滅多にないよと伝えていた。天気が変わりやすいのが山だけど、御来光のタイミングで雨が上がって霧が晴れるなんて滅多にある事じゃないよ、と。

中には自分の言った通りだとか、祈願したおかげだとか、うそぶいている人もいたけど、そんな事はどうでも良い。とにかく見れて良かった。ありがとうございますという感謝しかない。

 

そして、御来光のタイミングで僅か5分間だけ晴れ間が出た後は再び霧がかかって小雨が降り出してきた。まさに

 

奇跡の御来光

 

 そんな感じだった。

天気が本格的に崩れる前に山頂の吉田口の山小屋を目指す事にした。不安がる息子を説得し、霧雨が横から降りつける中、歩き始めた。

目的は下山用に木の杖を買う事だ。宿泊した山小屋には残念ながら置いてなかった。

昨日浅間大社の方が吉田口の山小屋は品揃えが豊富だからあるはずだと教えてくれたのだ。

 

道中吹き飛ばされそうな風の中、俺の腕にしがみつきながら息子は頑張って歩き続けた。途中休憩したいと言ったが、休める場所もなく、寒くて雨の中じゃ体力が削られるだけなので、頑張って貰った。30分程で到着した。

 

吉田口の山小屋は人気のルートなだけあり、登山者で溢れていた。雨のせいで、食堂も外まで行列。一旦列に並んで、売店に買い物してくると後ろの外国人に伝えて列を離れた。

 

「お父さん、英語喋れて凄いね!」と息子が話しかけてきて、「まぁな。」とか言いながら得意気な顔をしている自分がいた。

 

売店で御土産と杖を買った。杖には富士登頂、山頂記念というスタンプがしてある、山頂オリジナルだ。この杖に下山しながら焼印を押して貰うのも目的の1つだ。

隣の久須志神社でも焼印を押してもらい、寒いので息子は中で待機させ、食堂の列に戻った。

アメリカから来ていた黒人グループで、一人の女性が手を寒そうにしていたので、カイロを1つお礼に渡すととても喜んでいた。

 

食堂で暖かいうどんと豚汁を食べ、ココアを飲みがら天気の回復を待つ。少し日が出てきたのを見計らって、再び富士宮口を目指した。雨は止んだが、風は強い。元の山小屋に到着し、休憩した後、いよいよ下山する事に。

 

天気は徐々に回復し、息子も好調に下山できた。山小屋で休憩しながら焼印を押して貰い、約5時間で6合目まで辿り着いた。

下山途中、元気に挨拶をする息子に登山中の人達が声を掛けてくれた。

 

「元気だね〜上まで行ってきたの⁉️凄いね‼️」

 

とか

 

「まだ小さいのに凄いな〜負けてられないな。」

 

等と言われていた。そのやり取りを見ながら、8才の息子がこれから山頂を目指す大人達を勇気付けている、息子の元気な姿に励まされているのだと思った。当然息子はそんなつもりは微塵もない。ただ挨拶しているだけだ。

俺自身、子供達から学ぶ事や教えられる事は普段の日常の時から少なくないが、息子の小さな身体から溢れているエネルギーが行き交う大人を励まし勇気付けているのを目の当たりにして、単純に息子の事を凄いなと、誇らしく思えた。

 

初日に宿泊した6合目の宝永山荘で昼食を取り、登頂できましたと報告してから5合目に向かった。帰りに近くの温泉「天母の湯」に寄り2日ぶりの風呂に入って汗を流した。

安くて薬草湯も素晴らしくてオススメです。

 

帰りの車中も息子と楽しく話しながら帰る事ができ、最高の二人旅になった。

確実に旅に出る前と後ではお互いの信頼関係も違うと思うし、何より息子に取って自信になる経験が出来たと思う。

 

8才の時に富士山を登った事がある。

 

そう言える事が本人の自信に繋がると思うし、諦めなかったこと、目標を達成できたことは何より代え難い経験になるはずだ。

そして、俺自身、息子の成長を肌で感じる事ができて本当に良かった。何事も諦めないという姿をこれからも見せられる様な父親でありたいと思う。

 

〜悠々自適に生きる〜

息子と富士山に登ってきた〜2日目〜

今年9歳になる息子と富士山に登ってきた。

初めての二人旅は掛け替えのない思い出になったのは言うまでもない。

 

初日のエントリーはコチラ↓

息子と富士山に登ってきた〜1日目〜 - 悠々日記〜7人家族古民家暮らし〜

 

2日目の朝は6時半に起床、7時前に朝食を済ませた。8時出発予定だったが、時間を切り上げて7時半に出発し、一日かけて山頂を目指す。

今回俺たちが登るのは富士宮ルートで、通常大人の足で5時間半〜6時間かかるが、子供のペースだとどれくらいかかるのか検討がつかない。

富士山の登山ルートは全部で4つあり、

1番人気が吉田口ルート(約6割の登山者がこのルートで登る。山小屋の数も多く、登山道も比較的整備されているらしい)、

2番人気なのが富士宮口ルート(距離が1番短いが、険しい箇所もある。剣ヶ峰に近く、富士山頂上浅間大社奥宮があり、宿泊可能な山小屋もある。2割の登山者がこのルートだが、常連はほぼこのルート)

3、4番は割愛。

 

名古屋方面からも1番近いし、登山前の参拝も計画していた為、必然と富士宮口ルートを選んだ訳だが、とても良かった。登山ルートと下山ルートが同じ事が他のサイト等で問題視されていたが、混雑を避けて平日に登ったのも幸いし、全くストレスなく登る事ができた。むしろ登りながら声を掛けて貰ったり、励まし合った人と帰りに顔を合わす事が出来てとても励みになった。息子がまだ小さいのに頑張って登っているのを周りの登山者が感心して応援してくれるのだ。

 

「何年生?」とか「何歳なの?」

 

と聞かれ息子は、

 

「3年!」「8才!」

 

と自ら答えていた。すると多くの人が

 

「凄いねぇ‼️3年生(8才)で富士山に登るなんて‼️頑張ってね👍」

 

とエールを送ってくれるのだ。そんな人達が下山の時に再び顔を合わせて

 

「おぉ‼️少年っここまで来たのか‼️あともう少しだ‼️頑張れよ〜‼️」

 

と何人かが声を掛けてくれた。

 

「ありがとうございます‼️頑張ります‼️」

 

息子も返事を返す。

そんなやり取りがとても微笑ましく、誇らしくもあった。

 

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休憩する度に最高の景色が疲れを癒してくれる。

 

道中、息子と同い年の男の子と母親のペアがいた。何度か抜かれ抜きつつして、同じ場所で休憩している時に話をした。その子も初めての富士山で、日帰りで下山するという。行けるかは分からないが、時間が許す限り山頂を目指すという。その親子と9合目を過ぎた所で顔を合わせた。無事に頂上まで登って下りてきたらしい。とても嬉しくなり、お互い励まし合った。

 こんなエピソードも富士宮口ルートならではだと今更ながら思った。

 

 

大事なのは諦めないこと

何度も休憩しながら山頂を目指す。八合目を過ぎると徐々に道が険しくなり、引き返す人も多くなる。息子の体力もなくなってきて、休憩の頻度と時間が増えてくる。息子には時間はあるから自分のペースで登れば良いよと伝えた。

登るコースや休むタイミングを自分で判断して決めて欲しいと思っていた。

息子はどんなに疲れていても諦めることはなかったし、弱音を吐くこともなかった。

 

「行こう。」

 

そう言って立ち上がる息子が頼もしく、誇らしかった。

 

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富士登頂は決して楽ではない。

休憩しながら色んな話をした。

 

息子「8才で富士山登るのって凄いんだよね?大人でも大変なんでしょ?」

 

俺「そうだよ。大人でも頂上まで登れない人は沢山いるんだよ。子供は半分くらいしか上まで登れないんだよ。」

 

息子「そうなんだ…」

 

なんだか嬉しそうだ。

 

九合目を過ぎてからは数メートル進んでは休憩し、それを繰り返して少しづつ登っていった。

 

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カメラを向けても反応できないくらい疲れ切っている。この苦しい時の写真も、振り返った時に重要になるのだ。

 

俺「この先、生きていく上で大変な事は沢山あると思う。思い通りにいかなかったり、頑張っても上手くいかなかったり。自分でもここまで頑張ったんだから、って思うこともあるかもしれないし、もしかしたら周りの人からも十分頑張ったんだから、って言われることもあるかもしれない。そんな時に諦めるかどうか、まだ頑張れるかどうか、決めるのは自分だからね。富士山も頂上まで登るのは大人でも大変なんだから、もし、お前(息子の名前)がもう登れない、動けないってなっても仕方ないことだから…」

 

息子「イヤだ。諦めたくない。諦めるのキライだから。」

 

俺「…そうか。お父さんと一緒だな。お前も負けず嫌いなんだな。」

 

息子「負けず嫌いって何?」

 

俺「(笑)負けるのが嫌い、諦めるのが嫌いってことだよ。」

 

そんなやり取りをした。単純に嬉しかった。

純粋に、真っ直ぐ芯のある男に育ってくれている気がした。

 

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息子の背中が頼もしかった。

 

そうしてフラフラになりながらも山頂に辿り着いた。息子は登り切った喜びよりも疲労感がMAXだったらしく、早く休みたいと、興奮して喜んでいた俺を急かしていた。山小屋にチェックインして荷物を置いて、富士山頂上浅間大社奥宮を参拝し、記念撮影をした。

登頂したのは16時半、9時間かけて登った。

疲れるはずだ。

山頂の山小屋「頂上富士館」では、17時に夕食で19時には 消灯だが、息子は18時前には眠りに就いた。俺も息子の寝顔を見ながらそのまま眠ってしまった。夕焼けと星空を見るつもりだったんだが、一緒に布団に入ったら出られなくなってしまったのだw

翌朝は待望の御来光だ。楽しみで仕方ない。

 

〜悠々自適に生きる〜