悠々日記〜7人家族その日暮らし〜

5人の子育てに奮闘しながら悠々自適に暮らしているベンチャー社長の奮闘物語をゆるく発信します。

成功への道⑤〜理想の人生を生きる為に〜

独立編

アメリカ留学から帰国した後、3年でLAに戻る予定だったが、1年も経たない間に自転車女と電撃デキ婚を果たし、その後も最速でハットトリックを決めて僅か4年半で会社を辞めた俺は新たな船出に意気揚々としていた。不安と期待が入り混じる感覚がどことなく渡米前の感覚に似ている気がしたのをよく覚えている。

 

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ここで言う「成功」というのは単に世間一般でいう「大金持ち」になる事ではない。「自分の理想の人生を生きる」ことを一言で「成功」と位置付けた。そして勿論、自分自身「成功」している訳でも「大金持ち」な訳でもない。今まで歩んで来た道、これから進む目指すべき「成功」への道を自分の為に記録する事にしただけだ。そんな(今はまだ誰も知らない)自信家ベンチャー起業社長の物語シリーズである。
物語シリーズ①はこちら
成功への道①〜理想の人生を生きる為に〜 - 悠々日記〜7人家族古民家暮らし〜

前回の物語シリーズはこちら
成功への道④〜理想の人生を生きる為に〜 - 悠々日記〜7人家族古民家暮らし〜

 

 前回のシリーズで殆ど準備もしないまま起業する事になったと書いたが少し訂正しておきたい。実際には全く準備も何もしていなかった。

本来設計業界で独立を目指すのであれば、アトリエ系であろうと設計会社系であろうと先ずは資格を取得し、資金を貯めて、在籍中に自分の作品と呼べる案件を担当し、ポートフォリオを作成して独立するというのが一般的なというか頭の良い人が用意周到に進める準備万全な独立までの流れだ。

しかし、俺には何もなかった。一級建築士の資格は業界では「足の裏の米粒」とも揶揄されており、つまりは取っても取らなくても大差がないと言われている。激務の合間に勉強をして苦労して取得してもそれで仕事が取れる訳でもないし、実践経験に勝るものはないけど、現場監督や建築事務所の代表をするなら取った方が良いよね、ぐらいの印象だ。俺はインテリアと照明デザインを専門にしていたので、それこそコーディネーターとか二級建築士とか何の役にもたたない資格には一切興味がなかった。(ただの惰性と言い訳に過ぎないが)

そして、勿論安月給で家族4人で生活していたのだから資金等と呼ぶのもおこがましい、貯金すらなかった。あてにしたのは僅かな退職金だが、それも60万程度だ。四年半しか働いていないのだから貰えるだけ有難いが、PCとCADのソフトを購入して使い果たした。まさに木棒と布の服で冒険を始めた様なものだった。

 

退社までの半年間と退社後の半年間

南相馬市でボランティア中に衝撃の第三子ご懐妊の報告を受けたのが4月。担当していた案件の実施設計図提出もあり(コレが1番大変なのだ)、会社を退社したのが10月だから、独立するか転職するか(違う業界に行くか)を悩んでいた時期もあるが妊娠発覚後の約半年間はそれなりに準備をし始めた。先ずは本を読む事からw

個人事業主として設計事務所を開設するノウハウ本みたいな本を数冊読みながらフムフムと分かったつもりになるのだ。

その後は周りの人に独立する事を相談しながらそれとなく営業をしていた。そして、その営業の甲斐あって独立後に自社ビル建設のデザインを依頼してくれるという会長が現れたのだ。

流石は俺。この歳でホテル案件をこなしてきてる奴はそういない筈だ。思った通りだ。やはりイケるな!コレは!と自信満々だった。

在籍中にも関わらず、忙しい業務の合間にラフプランとCGパースと設計料の見積書を作成してプレゼンした。ポートフォリオの作成も忘れていなかった。一発OK。

退職する前に独立後の仕事を獲得できるなんて

 

やはり俺は天才だな

 

自画自賛していた。

勿論俺は資格もないし建築の法規や構造なんかは専門外なので、その辺りは独立していた先輩設計士と協業する事にしていてその旨も説明していた。建設は地元の馴染みの業者だ。そこの社長と担当者を紹介されて自己紹介とラフプランを説明した。先方は若い俺を下に見る感じの嫌な対応だったが、別に気にしない。そんなのはこの先もずっと付き纏うのだから。この業界で20代は半人前の素人扱い、30代で若手と言われるが、殆ど相手にもされない。当時28歳だった俺は当然ちんちくりん扱いされても仕方ないぐらいなのだ。

 

そんな訳で何も準備もしていない状態で独立を決めた俺だったが退職までの半年間でできる限りの準備をし、退職と同時に開業届けを提出して晴れて独立を果たした。既に最初の案件は決まっている。順調なスタートを切る事が出来た。俺もやるべき事はやってきたし、苦労も人一倍してきたつもりだ。解る人には解って貰える。そう実感した。

 

そして、退職後、新しい名刺を作って会長の元へ挨拶に行くと何やらいつもと様子が違う。

 どうやら事務所移転の為に購入した物件に当分本社機能を移して自社ビル建設は延期するという。自社ビルの上階に社長である娘家族が住む予定だった筈が「そんな所に住みたくない」と言ってきたらしい。マジか。当然合意の上で話を進めているものと思っていたが。

いつまで延期するのか聞いても未定だと言われて話が終わる。終いにはそもそも俺は資格を持っていないそうじゃないかと(何度も説明した筈だが)言われ、結局この案件は中止になった。地元の建設会社から何か言われたのかもしれないが、

 

世の中そんなに甘くない

 

結局はそういう事だ。プレゼン費用の30万だけ払って貰って振り出しに戻る事になった。

 

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その後は必死に営業したつもりだが、当然20代の若造に大事な設計を任せてくれる人などいるはずもなく仕事は全くなかった。

前の会社に在籍中だった頃の担当物件をポートフォリオにまとめてプレゼンした所で独立してからの作品はないのか?と聞かれてお終いだ。

一級建築士の資格は持ってるのかとも聞かれ、自分はインテリアと照明デザインが専門ですのでと伝えても先方には理解されない。

 

無収入の月が数ヶ月続いた。

 元々貯金もなかった訳だから当然生活費が足りなくなる。クレジットカードで誤魔化してきたが、支払いも間に合わない。

日本政策金融公庫から何とか調達した300万も生活費の支払いであっという間になくなった。

消費者金融も限度額まであと僅かだ。数ヶ月後には3人目が産まれてくるというのに、マジでヤバイ。焦燥感が半端ない。

 営業に行こうにも行く先もない。物を売る商売ではなく自分を売る商売なのだから、周りに頼った所で案件がなければ話にならない。どうすれば良いのか、何をすれば良いのかもわからない。前の会社の業者さんからプレゼン資料の作成の下請で提案をしたりしたが、採用されなければ仕事にはならない。資料作成の下請け業務だけでは当然生活ができないのだ。

そんな状態が数ヶ月続き、いよいよ3人目が産まれてくる。このままでは一家5人で路頭に迷う事になる。

そんな不安に押し潰されそうになった俺は知り合いの設計事務所にバイトで雇って貰えないかとお願いした。仕事が軌道に乗るまで、時給で構いませんのでお願いしますと。

 こうして昼間や夜中に在宅でバイトの作業をしながら合間の時間で自分の仕事(プレゼン資料作成の下請け)をこなす日々が始まり、少しした頃に

 

3人目が産まれた。

 

腕の中で眠る産まれたての赤ん坊を眺めながら、このままではダメだ、何とかしなければならないと言葉にはし難い憤りを感じていた。

 

〜悠々自適に生きる〜