悠々日記〜7人家族その日暮らし〜

5人の子育てに奮闘しながら悠々自適に暮らしているベンチャー社長の奮闘物語をゆるく発信します。

成功への道11〜理想の人生を生きる為に〜

リーキーガット症候群という当時は正体不明の病と闘い、妻の献身的な看病のお陰で約一年ぶりに(なんとか)動ける身体を取り戻した俺は、それまで持っていた価値観が大きく変化していた。

ここで言う「成功」というのは単に世間一般でいう「大金持ち」になる事ではない。「自分の理想の人生を生きる」ことを一言で「成功」と位置付けた。そして勿論、自分自身「成功」している訳でも「大金持ち」な訳でもない。今まで歩んで来た道、これから進む目指すべき「成功」への道を自分の為に記録する事にしただけだ。そんなベンチャー社長の物語シリーズである。


物語シリーズ①はこちら
成功への道①

 成功への道①〜理想の人生を生きる為に〜 - 悠々日記〜7人家族その日暮らし〜

 

前回の物語シリーズはこちら
成功への道⑩

成功への道⑩〜理想の人生を生きる為に〜 - 悠々日記〜7人家族その日暮らし〜

 

齢30にして自分の身体が思う様に動かない経験をした事で、いつ自分が大病を患い動けなくなるかも分からないと痛感した。闘病中はベッドの上で動けない(体感重力が3倍ぐらいに感じる)自分を憂い、迷惑ばかり掛けている妻と子供達に申し訳なくて何度も涙を流したものだ。

 

このままくたばっちまうんじゃねぇか?

 

何度もそう思う事があった。

だが、よく考えれば自分より重い病と闘っている人は沢山いる。こんな事でくたばる訳がない。そう奮い立たせた。

元気になったら何をしようか、何がしたいかをずっと考えていた。

 

子供達と沢山遊びたい

家族で色々な所に出掛けたい

ずっと苦労をかけている妻を労いたい

バリバリ仕事がしたい

 

兎に角、やりたい事をしたい。

やりたい事しかしたくない。

 

こんな風に書くと厨二病だとかスピ系だと思われるかもしれないが、心底そう思ったのだ。

嫌な奴とは仕事したくないし、無駄な事なんてしてる暇はない。

 

自分の残りの人生かけて自分がやりたい事がしたい!自分の胸が躍るような事業がしたい!

 

そう強く思った時、自分の原点を思い出した。

アメリカに留学していた時、帰国した後も抱き続けた想い。

 

日本人として日本の為になる事がしたい。世界を舞台に。

 

別に格好付けてる訳じゃないです。

人に言うと格好付けてる様に映るから外ではあまり話した事もない。

でも本気なんですよ。

日本を出た事で日本を知り、自分が今までどんなに小さな世間と偏見と知識で、それが当たり前の様に生きてきたのかを痛感した。

渡米して最初の頃は友達もろくにいないし、インターンが定時に終わり夜間学校も行ってたけど、暇な時間が沢山できた。

日本にいた時は遊びが7割、勉強2割、サッカー1割みたいな生活をしていたので、立ち止まる事もなく慌ただしく生きていた(それはそれで最高に楽しかった)訳だが、ふとした事で日本の事をもっと知りたくなった。

夜間学校のスペイン人やアメリカ人の友達から

 

日本人は1日12時間も働くって本当か⁉️

家族の時間も自分の時間も殆ど取れないじゃないか。クレイジーだな‼️

 

と言われて、確かにそうだけど、アメリカでも仕事できる人はそれぐらい働いてない?って聞いたら

 

その人達はその分稼いでるよ。

日本もそれぐらい稼げるの?

 

と言われて確かに〜と思ったのが、きっかけ。

昔の日本、日本人は凄かった。

日本企業がアメリカの企業をどんどん買ってたし、ハイブランドは日本人ばっかりだった。

今は中国人ばっかりだけど、日本はどうなってんの?

 

なんて聞かれても何も返答できなかった。

知らない。バブルも知らないし。

ずっと不況なんだよ。この20年。

それぐらいしか言えなかった。

 

そもそもなぜ高度経済成長してバブルになって、弾けたのか。プラザ合意とか近代史の勉強で覚えたぐらいで背景とか全然理解してなかったし興味もなかった。

 

でもアメリカで友達になった日本人の1人が、世界情勢とか日本の歴史とか凄い詳しくて、話をするのが楽しくて、本を読んで、ネットで調べて知った事をまたその人の家にお邪魔して夜中まで話込んでた。

 

眼から鱗がバリバリ剥がれていく感覚。

近代史において日本が果たした功績は計り知れない。欧米の帝国主義を終わらしたのが日本であり、アジアの主権が認められたのだって日本の存在が大きい。なんて事も全然知らなかった。

 

そんな話ができる人に出会えた事で日本の歴史や文化、技術力を調べるきっかけになり、日本人としての誇りとかアイデンティティみたいなものを持ち始めた事で、そういう日本の文化や技術を世界に発信できる様な仕事ができたら素晴らしいなと思う様になった。

 

だけど、当時自分は照明デザインの勉強をしにインターンとしてアメリカに来ていたし、デザインは自分の好きな事だし、夢でもある。

当時はその事でよく悩んで、その友達に相談していたのを今でもよく覚えている。

 

デザイナーの仕事は何処までいっても個人の力量が勝負の厳しい世界である。そんな世界に憧れて勝負したいと思ってアメリカまで来た。

でも、もっと大きな事がしたい。個ではなく全、社会に対して貢献できる事がしたい、役に立つ事がしたいと本気で思ってしまった。

政治家?いや、違う。ボランティアでもない。

 

事業活動は本来、サービスの対価であり社会貢献の対価なのであれば事業活動を通して日本の為に社会貢献できるんじゃないだろうか。

 

そんな風に漠然と新たな夢ができた訳だが、だからと言って何をしたいのか、何をすれば良いのか分からない。

その時、友達が言ってくれた言葉を今でも覚えている。

 

「今(当時)の俺の環境はとても恵まれてるよ。その事に感謝して、今できる事を一所懸命に努力していたら、きっといつかやりたい事が見つかるよ。その時、デザインのスキルやそれまでやってきた事は必ず役に立つと思うし、U(俺)の糧になってる筈だから、安心して今やるべき事をやれば良いと思う」

 

そう言って背中を押してくれた。

帰国前に最後に会った時、涙が止まらなかった。

 

それから約7年、子宝にも恵まれ我武者羅に走ってはいても常にやりたい事を探していた。

特に独立してからは新しい技術や案件にも積極的に参加して情報収集をしていた矢先に病気で倒れたんだ。

 

情報収集していた時にずっと気になっていた技術があった。動ける身体を取り戻し、自分がやりたい事をしたいと思った俺は、その技術を詳しく知る為にDMを送り、幸いにもアポを取る事ができた。

 

自分がやりたいと思える事は実はとっくに見つけていたんだ。それに気付いていなかっただけで。その時、確かに俺の中の点が繋がったんだと思う。

 

ここから先は、少し後に書いていく事にします。具体的な話になっていくにつれて、俺個人が特定されるだろうし、それはメリットデメリットあるけど、何より恥ずかしいw

ちゃんと世間から認知され、良くも悪くも評価された頃に備忘録としてまた更新していきたいと思う。

だが、これだけは言っておく。

 

あの日抱いた壮大な夢を、俺は今でも追い続けているんだぜ?絶対に諦めんじゃねぇぞ。

 

〜悠々自適に生きる〜